鈴木修〜チャレンジ精神と誠実さにあふれる中小企業の親父〜

テレビでマスコミに向かって怒鳴っている……そんな強面の社長という印象が強いスズキ株式会社の代表取締役会長・鈴木修(すずき・おさむ)氏。しかし一方、雑誌や広報誌のインタビューなどに柔らかい笑顔で応じる姿は、まるで孫を前にしたおじいちゃんのようです。

1930年、岐阜県益田郡下呂町(現・下呂市)に生まれ、銀行勤めを経て、スズキ株式会社(当時は鈴木自動車工業)へ入社。2代目社長の娘婿となり、1976年に社長就任。その後、海外展開などを推し進め、スズキの発展に貢献してきました。1987年に藍綬褒章、2000年に旭日重光章を受賞。『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済新聞出版)など著書多数。

2代目社長の娘婿となり、スズキへ入社

鈴木氏は1953年、中央大学法学部を卒業後、中央相互銀行へ入社。1958年に鈴木自動車工業の2代目社長となる鈴木俊三氏の娘さんと結婚した縁で、鈴木自動車工業へ転職します。

ただ、当時はトヨタ危機などに代表される労働争議まっただ中の時代で、鈴木自動車工業も倒産寸前。事業的にも、それまで同社を支えてきた鈴木式織機が、耐久性が高すぎて買い替えのサイクルが長く、需要の掘り起こしが厳しくなっていました。

パワーフリー号の成功

そこで同社は、1950年代から自動車事業へ転換し、まずオートバイの製造を開始。「パワーフリー号」など、多くの人に愛される二輪車を生み出し、一定の成功を収めます。

スズライトで地位確立

その後、自動車の開発・製造にも本格的に着手。1955年に発表した軽4輪「スズライト」は、日本の軽自動車の先駆け的な存在として注目を集めました。後に軽自動車の雄としての地位を確立するスズキのスタートでした。

排ガス規制と対米自動車輸出自主規制による失敗

鈴木氏は1963年に取締役、67年には常務取締役、そして73年に専務取締役に就任するなど、順調な出世街道を歩みます。自動車事業も高度経済成長の後押しを受け、特に対米輸出が加速して、同社は大きく成長していきます。

排ガス規制による苦境

しかし、失敗がなかったわけではありません。その代表的な例が、1970年代に自動車メーカーを苦しめた排ガス規制「マスキー法」でした。

この規制は、当時の技術に照らすと極めて非現実的な条件が並んでおり、ホンダの「CVCCエンジン」が登場するまで突破は不可能と考えられていました。

スズキのエンジンも例に漏れず、マスキー法の基準を満たせずにいました。

このままでは自動車の販売自体ができなくなる……そんな苦境の中、スズキはライバルであるトヨタ自動車(当時はトヨタ自動車工業)のグループ会社・ダイハツ工業からエンジンの供給を受ける方針に転換。これは苦渋の決断だったらしく、鈴木氏は当時のことを「人間の心臓を入れ替えるようなものだった」と振り返っています(産経新聞より)

また同じ頃、対米自動車輸出自主規制が実施され、スズキは窮地に陥ります。当時まだ弱小メーカーだった同社は、枠が割り当てられなかったのです。

このときの経験から、鈴木氏は「どこの国でも良いから一番になりたい」と考えるようになりました。

ボンバンブームの立役者「アルト」で大逆転

主婦層の需要を獲得

1979年、苦境にあったスズキは起死回生の車種「アルト」をリリースします。これは鈴木氏の発案で開発された軽乗用車でした。

これは当時の税制を逆手に取って企画された、秀逸な軽ボンネットバンでした。

軽乗用車には当時、15%以上の高い物品税が課されましたが、商用車は物品税が非課税のため、合法的な節税が可能でした。またコストカットも徹底したことで、販売価格は47万円という破格の水準まで下がりました。

この「アルト」が空前の大ヒット。ファミリーが買い物や送り迎えに使うなど、特に主婦層の需要の掘り起こしに成功し、スズキの代名詞となりました。

徹底したコストカット

このとき開発の陣頭指揮を執った鈴木氏のコストカットへの執念は凄まじく、現場は非現実的な目標を課されていたといいます。結果、見た目を犠牲にして、しかし最低限の安全性を確保しつつ、コストカットがとことん進められました。ヘッドレスト一体型のフロントシート、ベニヤ板で作られた後部座席、一体成形型のシンプルなダッシュボードなど、その徹底ぶりはまさに狂気の沙汰でした。

海外展開の成功で一気に成長

その後、スズキは、かつて鈴木氏が抱いた「どこの国でも良いから一番になりたい」という想いに応えるように、海外展開にも精力的に乗り出していきます。

パキスタンでの製造を開始

まず1975年、自動車メーカーがなかったパキスタン政府と合弁で、同国に自動車工場を建造。1982年には、インド政府とも国民車開発プロジェクトを立ち上げ、同国での自動車の製造をスタートしました。

これが成功し、当時5000億円ほどだった売上高は、4兆円規模にまで成長。この実績への貢献が認められ、鈴木氏は1978年に代表取締役社長に就任します。

ただ、当時を振り返る鈴木氏は「明確な海外展開戦略があったわけではなかった」と語ります。曰く「クーデターが起きない安定した国かどうかだけ見ていた」「現地での雇用を創出して、市民の生活を改善することを第一にしてきた」「一度決めたことはとことんやってきた」と、その時の心構えを語っています(中央大学・公式webサイトより)

インドでの知名度

特に巨大市場・インドでの成長はめざましく、今でも2台に1台はスズキの車が走っています。あのトヨタ自動車ですらスズキの10分の1程度のシェアと、もはや足元にも及ばない圧倒的な強さを見せつけています。

不正騒動も、真摯な謝罪で企業を守る

また鈴木氏は、経営者としての姿勢でも評価が高いです。その象徴的な出来事が、2016年に巻き起こった燃費偽装問題でした。 

これは、実際に車を走らせて測定しなければならなかったデータを、各部品の仕様値を足し合わせて計算していたという問題です。当初、三菱自動車の不正が発覚し、国交省から全ての自動車メーカーへ調査が指示されました。

このとき、鈴木氏は当初「不正はない」と会見で発表していましたが、調査の結果、三菱と同様、測定方法が正しくないことが明らかになりました。

すると、それまで現場をかばっていた鈴木氏は一転、不正を明確に認め、真摯に謝罪。なぜそのような不祥事が起こったのかも徹底究明し、公表しました。

こうした鈴木氏の誠実な姿勢は世間に評価され、その知名度をいっそう高めることにもなりました。また、スズキのテストコース特有の事情で、むしろ実車による走行テストではデータが正しくなくなるといった背景も加味され(つまりエンジニアたちは、より正確なデータを取ろうとして、仕様値の足し合わせを行っていました)、同社そして鈴木氏を擁護する声が多く聞かれました。

鈴木氏の言葉

経営者としても、人としても、その素晴らしさに多くの人が尊敬の念を寄せる鈴木氏。そんな彼が口癖のように話す言葉があります。 

「自分は中小企業の親父」

一流メーカーへ成長を果たした今も、鈴木氏はそう語ります。その理由は、最大の自動車メーカー・トヨタ自動車への反骨心(ちなみに、両社は後に提携しました)、巨人に真っ向から勝負を挑む気概ゆえではないかともいわれますが、いつまでもチャレンジを続けるベンチャースピリットあふれる姿勢は、まさにその言葉そのものといえるでしょう。

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